研究室を脱出せよ!【22】ポスドク、真摯さについて考える。
玄関先まで藤森先生を見送ったあと、僕は黒岩さんに尋ねた。
「黒岩さんは、研究室の目的ってなんだと考えてるんですか?」
黒岩さんは気のない返事で、
「ん、そうねー。まあ、な。難しいよなあ。」
などと適当なことを言っていた。
居部屋に戻ると、先ほど書かれた図がそのままホワイトボードに残されていた。黒岩さんはそれを見ながら、
「なあ、ケンドー。研究室の悪魔の戦略、って知ってるか?」
とつぶやいた。
「悪魔の戦略?」
僕は、その不吉な言葉に思わず顔をしかめた。
「っていっても知るわけないよな。俺の考えた言葉だから。」
そういいながら、黒岩さんはホワイトボードの図を静かに消し始めた。
「企業が利益だけを目的として事業を続けるとする。短期的には業績が上がるかも知れないけど、長い目で見るとだいたいの場合、悪い結果しか生まれない。そういう企業はマーケットの中で、もみくちゃにされていくうちに消えていく。自然淘汰みたいなもんだ。あるいは、自分のことしか考えない経営者がいたら、内部外部を問わず圧力がかかって、いつしかクビになる。」
だが、といって黒岩さんは手を止めた。
「もし、自然淘汰が生まれない組織があったら?そして、もしもトップが永遠に変わらないとしたら?」
僕は思わず息をのんだ。それは、まさしく大学の研究室のことだったからだ。
「そういう組織では、手段が目的化してしまうことを防ぐことはできない。とにかく良い論文を出し続けること。その論文の業績を使って、巨大なグラントを取ること。これらのことだけを目的とし、あとのことは一切お構いなしだったとして、そのラボに何か圧力がかかるだろうか。」
そこまで一気に言うと、黒岩さんは残りの図も消し始めた。
「ひとつの思考実験だと思って聞いてくれよ。手段の目的化のために、俺ならまずは学生を卒業させない。学生はタダで働いてくれる貴重な労働力だからだ。それどころか大学院に学費を払い続けている。もし学生のテーマが大化けしそうなら、3年で博士課程を終わらせるなんてもったいないじゃないか。あと少し頑張れば一流雑誌に載る、とかなんとかいって、なるべく卒業を引き延ばす。もうひとつの戦略は、研究員のテーマをまとめて一つの論文に仕上げることだ。研究業績っていうのは変な仕組みでさあ。いくら費やしたとか、どのくらい時間がかかったとか、何人でやったかなんていうのは、一切考慮されないんだ。会計でいえば、いつも売り上げしか見てないようなものだ。本当に大事なのは、投資額、あるいは原価に対してどれだけの売り上げがあったか、っていう率の方だろう?でもアカデミアは違う。4人なり5人の実験結果を1つにまとめれば、それなりのネームバリューのある雑誌に載せることは簡単かもしれない。その仕事をした人は、その中から運良く選ばれた一人の者にすればいい。そうすれば、研究室として立派な論文を出せました、となってめでたしめでたしだろ?もちろん、こんなことを続ければ学生だって研究員だって浮かばれないよ。だけれども、少なくとも悪魔の戦略には彼らを大事にしなければいけないインセンティブがないんだよ。学生は黙っていても入り続けてくるし、ポスドクは空前の買い手市場だ。」
僕は黒岩さんの話を黙って聞いていた。黒岩さんが田所研のことをいっているのは間違いなかったからだ。
つい先日やめた学生は、5年間博士課程に在籍しながら結局卒業できなかった。いつ論文になってもおかしくないほどの結果が出ていながら、田所教授が渋ったからだ。最後は「あれ、きみ今何年目だっけ?」と田所教授に聞かれて、その日以来ラボにこなくなってしまった。テーマは三井さんが引き継ぎ、いくつかの追加実験をしたところで論文になった。もちろんそこに彼の名前は入っていなかった。
三井さんが先日出したエラー入りの論文も、もとはといえば以前いた2人のポスドクのテーマだった。彼らのテーマを結びつけると面白いストーリーになると田所教授は言い放ち、テーマを三井さんに引き継がせた。やることの無くなってしまったポスドク達は、二人そろって特許庁に転職することになった。
「新しい価値の創造にしても、学生やポスドクの教育にしても、そんなものは考えなくたって研究室運営はうまくだろう。いや、むしろ考えない方がうまくいくかもしれない。アカデミアがそういう仕組みになってるからな。」
僕は、黒岩さんのいう悪魔の戦略のことを考えて、目の前が真っ暗になったような気がした。そのとき、さきほど見たばかりの藤森先生の真剣な眼差しが脳裏をよぎった。僕は思わず大きな声をだしてしまった。
「でも、みんながみんな悪魔の戦略をとってるとは限らないじゃないですか。いや、むしろそんなの少数派でしょ。どうして、他の先生は悪魔の戦略をとらないんですか!?」
黒岩さんはゆっくり振り返ると、こう言った。
「それが、さっきお前が言ってた『真摯さ』ってやつなんじゃないの?」
その言葉を聞いて、僕は思わずうなってしまった。
「マネージャーが学ぶことのできない資質、習得することができず、もともと持っていなければならない資質がある。他から得ることができず、どうしても自ら身につけていなければならない資質がある。才能ではなく真摯さである。」(『現代の経営』)
「なあ、ケンドー。」
そういって、黒沢さんは僕の目を見据えた。その目は、いつもテキトーなことばかり言っている普段の黒沢さんの目ではなかった。もの悲しそうな、悔しそうな、そんな目だった。
「お前はさあ、このラボに来ていろんなことを勉強したと思う。」
黒沢さんのいう通りだった。僕は、このラボにきてから色々な目に遭ってきた。それでも、良いことも悪いことも含めて何かしら学べることができた。ときには黒岩さんの手助けを借りながら、それらを一つ一つ胸にきざんできた。
「良いことも悪いことも、か。そうだな。」
黒岩さんはそういうと、いま消したばかりのホワイトボードに新たなグラフを書き始めた。
「悪いことからも何かしら学ぶことはできる。確かにそうだ。だけれどな、そういうときの成長のカーブは直線を描く。」
そういってグラフに一本の線を書き込んだ。
「人は、本来ならば良い影響を受けながら育つべきなんだ。尊敬できる人がいて、刺激しあえる仲間と切磋琢磨する。研究室っていうのは、本当はそういう場所であるべきなんだ。そういう環境に身を置く人は、指数関数的な成長を遂げることができる。ちょうどこんな風にな。」
黒岩さんが書き加えたカーブは、天高く空に登っていた。
「良い環境も悪い環境も、等しく人を成長させる。それは間違いない。特に、新しい環境に身をおいて間もない頃ならばなおさらだ。最初の方はふたつの線は重なってるだろ?だけどな、これから時間がたつにつれ、差は少しずつ大きくなっていく。そして、いつしか圧倒的な差が生まれるんだ。ケンドー、俺はお前が転職活動を始めたのは正解だと思っている。お前がいろいろと頑張っているのもよく知っている。だけどな、お前に残された時間はそう多くはないんだ。時間がない。そのことを常に頭にいれておけよ。」
そういうと、黒岩さんは足早に居部屋から出て行った。
「時間がない、時間がないんだ。」
それは、黒岩さんが自分に向かってつぶやいているようでもあった。
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